ハロルド・J・ティンパーリ
略歴
西オーストラリア州バンバリー生まれ、のちパースに移った。1914年、18歳のときデイリー・テレグラフ紙のレポーターとなったが、同年、第一次世界大戦に徴兵される。1919年に帰国後、記者に戻り、1921年に香港の新聞社に勤務するために中国に渡る。
後に北平(北京、1924-1936年)に移りクリスチャン・サイエンス・モニター、AP、ロイター通信社北京支局記者など様々な新聞の特派員となった。1928年からマンチェスター・ガーディアン紙特派員。1934年からはASIA誌顧問編集者[2]。1936年5月頃、上海に事務所を移し、1年間マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となるが、1937年5月にAP特派員として南京へ移動した。
南京移住後
1937年8月28日、鉄道部の広報誌『The Quaterly Review of Chinese Railway』の編集をしていたエリザベス・J・チェインバースと南京の英国大使館で結婚した。9月初めに上海に移りフランス租界のアパートに居を構えた。第二次上海事変に際し、上海国際赤十字の副主席で難民委員会委員長であったフランス人神父ジャキノの設立した南市安全区に関与し。
南京事件
1937年12月13日の南京陥落時とその後の日本軍占領時に起こったといわれる南京事件に際して、1938年1月16日付電報で「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と記載した。この電報は、日本人検閲官によりに差し止められた[3]。
『WHAT WAR MEANS』の出版とフィッチの渡米
ティンパーリは南京城内の安全区委員会のメンバーであったジョージ・アシュモア・フィッチ、マイナー・シール・ベイツからの報告や安全区委員会文書、その他各地の日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめ、『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を編集する。
なお、出版にあたって、南京安全区国際委員会委員であり金陵大学(現:南京大学)教授であったマイナー・シール・ベイツへの書簡(1938年2月4日付)においてティンパーリは次のように書いている[4]。
ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。効果はてきめんです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配はしているところです。 |
しかし、当時のティンパーリを知るティルマン・ダーディンの証言によれば、ティンパーリは金銭的に厳しい生活をしていた[5]。まもなくフィッチは渡米し、政府関係者と面会し、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いた。北村稔はこれらの資金源は国民党であったとしている[6]。
ティンパーリは、1938年4月初めに上海からロンドンに向い、7月にヴィクター・ゴランツ書店から『What War Means: The Japanese Terror in China』を刊行した。ヴィクター・ゴランツはイギリスの出版者で、ハロルド・ラスキとも交流のあった代表的な左翼知識人であった[7]。ティンパーリの『WHAT WAR MEANS』はレフト・ブッククラブ(LEFT BOOK CLUB,左翼叢書)という叢書のひとつとして刊行された。同叢書からはエドガー・スノー『中国の赤い星』やアグネス・スメドレー『中国は抵抗する』なども刊行されている[8][9]。また『WHAT WAR MEANS』は刊行と同時に中国語訳も出版された(由楊明訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月)。刊行後、ティンパーリは米国を旅行した後、マンチェスター・ガーディアン紙やASIA誌を辞し、1939年3月頃、重慶に入った。
第二次世界大戦後
北村稔は、ティンパーリが南京軍事法廷や極東国際軍事裁判に参考人として出廷しなかった理由について、ティンパーリが情報工作者であったためではないかとの見方を示した[11]。なお『WHAT WAR MEANS』の前言に出てくる「善良な日本人」は親交のあった同盟通信松本重治、上海日本総領事日高信六郎、上海派遣軍報道部宇都宮直賢であったという[12]。
インドネシアとオランダの紛争が深刻化すると、その仲介のために国連安全保障理事会は、インドネシアに対する仲裁委員会を設置した。ティンパーリは事務方責任者として会議に参加。1948年10月に任期を終えた後は、パリの国際連合教育科学文化機関事務所に勤務した。1950年、仲裁委員会を通してインドネシアに信頼されていたティンパーリは国際連合教育科学文化機関を辞して、インドネシア外務省の技術的な指導をするためにジャカルタへ渡るが、1951年、熱帯病に冒され、イギリスへ渡る。
国民党中央宣伝部との関わり
従来、ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。しかし、近年の研究でティンパーリは左翼思想の持ち主で、イギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたほか、国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として月額1千ドルの活動費を得て、宣伝工作活動を行っていたことが判明している[15]。
北村は、王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(1928-1945)』(1996年)[16]および国際宣伝処処長曽虚白の回想記[17]に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性を示唆している[18]。
『曾虚白自伝(上)』の記述は以下のようになっている。[19]。
ティンパーリーは都合のよい事に、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。〔中略〕直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。〔中略〕我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略〕二つの書物は〔中略〕宣伝の目的を達した。 |
また、北村は中国社会科学院が1981年に編集した『近代来華外国人名辞典』[20]には、ティンパーリについて「1937年盧溝橋事件後、国民党により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と記されており[21]、同人名辞典の編集をした孫瑞芹が1937年当時にはロイター通信社北京支局に携わっていて、ティンパーリを個人的に知っていたと主張している[22]。
東中野修道は、日本軍が南京を占領した1937年12月以後約3年間の中国国民党の宣伝工作を記録した「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要」[24]という1941年に作成された文書中の「対敵宣伝本の編集製作」の部分に『外国人目睹之日軍暴行』("What War Means"の中国名)は同機関が編集印刷した対敵宣伝書籍と明記されているとして、ティンパーリの著作は中国国民党の宣伝書籍であるとする鈴木や北村の見方は確実なものだと主張している[25]。
これに対して、渡辺久志は、曽虚白はティンパーリが日本軍占領下の南京にいたとする誤りを前提として語っていることなどを指摘、この証言には問題があるとし、また、曽虚白は当時ティンパーリが中央宣伝部と関係があったとはしていないと主張して北村説を批判している[26]。
また、渡辺はティンパーリ関係の原資料を調査して確認したところ、ティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのはマンチェスター・ガーディアンの特派員を辞めた1939年であり、『WHAT WAR MEANS』出版時には国民党中央宣伝部顧問ではないと主張している[27]。
井上久士は「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」[28]には「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」とあり、曽虚白の回想記の「二冊の本を書いてもらった」という記述は誤りと主張している[29]。
笠原十九司は渡辺と井上の論文に依拠しながら、「曽虚白の自伝は、自画自賛的で信憑性がない」と主張し[30]、国際宣伝処がティンパレーから翻訳権を買い取り、中国語版10万部を出版するために資金を出したことを、曽虚白は「自分がティンパレーに書かせたかのように誇張した」と主張している[31]。さらに笠原は北村の研究に対して、その最大の「トリック」は、ティンパレーが国民党の宣伝工作員でないときに執筆した「戦争とは何か」を、国民党のスパイとして書いたかのように思わせようとした点であると主張し、また北村は「裁判における起訴状と判決書の区別もできずに、裁判官がティンパレーの本から引用して判決文を書いたとするなど、裁判のイロハがわかっていない」と主張した[32]。
著作
- What War Means: The Japanese Terror in China, London, Victor Gollancz Ltd,1938. (レフト・ブック・クラブ版と一般向版の2種がある)
- The Japanese Terror in China, New York, Modern Age Books, 1938.
- Japan: A World Problem, New York, The John Day Company, 1942.
- Australia and the Australians, New York, Oxford University Press, 1942
- Some Contrast Between China and Japan in The Light of History /10 page leaflet, London, The China Society, publication date unknown.
- The War on Want /5 page leaflet, London, Gledhill & Ballinger Ltd., 1953
What War Means翻訳書:
- 中国語訳=由楊明訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月
- 日本語訳=訳者不明『外国人の見た日本軍の暴行』(中国語訳からの重訳、1938-1941年に軍関係者によって出版されたものと推定される)
- フランス語訳=MM.l'Abbe Gripekoven et M.Harfort, "Ce Que Signifie la Guerre", Belgioue,1940(推定),Amities Chinoises
- 日本語訳=洞富雄編『日中戦争史資料 9』河出書房新社、1973年(昭和48年)
米中合同の演出だった「南京大虐殺」と「中国侵略」
戦後70年の今なお残る中国の誇大宣伝を利用した米国の極東政策
〔南京市の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」で行われた追悼式典で演説する習近平国家主席(2014年12月13日)AFPBB News〕
中国は自国内で起きた数々の歴史上の、そして今もチベットなどで起きている非道な虐殺などから人民の目をそらす必要から、戦後70年を期に各種イベントを行って日本を犯罪国家に仕立て、烙印を不動のものにするため世界記憶遺産への登録すら考えている。
ほぼ80年も前の南京事件の真偽と言っても、多くの国民にはピンと来ないかもしれない。しかし、ここ数年に起きた身近な毒餃子事件や尖閣諸島沖での中国漁船追突事案などで、中国が国際社会に向かって偽情報を発信して、罪を日本になすり付けようとしたことは記憶に新しい。
国内や国際社会で、欺瞞と偽宣伝を平然とやるのが中国古来の伝統であり、連綿と受け継がれている「孫子の兵法」文化である。
中国の化けの皮をはぎ、日本の子孫に謂(い)われなき汚名を残してはならない。
客観性を装うための外国人活用
1937年7月に始まるシナ事変は、中国が画策して勃発させたにもかかわらず、「日本の侵略」とするため、国民政府の駐仏大使であった顧維釣は同年9月、ジュネーブを訪れて国際連盟に提訴した。また米国に向けて以下の演説(要旨)を行った。
「中華民国を創設した革命の指導者たちは、偉大なアメリカの政治思想家たちの啓発を受けました。また数千の中国人学生がアメリカに留学し、アメリカの思想と理想を持ち帰っています。中国は、アメリカの人民が我々のために戦ってくれるのを望むものでは決してありません」
「しかし、中国が精神的支持と物質的援助を必要としているのは確かです。偉大な(ルーズベルト)大統領の指導下に中国を全力で支持し、国際関係における法律と秩序を回復し、永く太平洋の平和を保たんことを心から希望します」
法と秩序を破っているのは中国でありながら、昔も今も恬(てん)として恥じない中国である。
他方、その後に起きる事件を、国民党政府指導の下で、宣教師やジャーナリストなどを利用した宣伝によって、「大虐殺」に仕立てる謀略を巡らしていた。
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そのため、11月に国民党中央宣伝部を作り、その下に国際宣伝処(曾虚白処長)を国民政府の所在する重慶に設けた。宣伝処は上海と香港に支部を置き、また昆明をはじめ米加英豪墨印およびシンガポールの主要都市に事務所を設立する。
曾虚白は上海のSt. John大学を卒業し、南京の金陵女子大学教授で、蒋介石に委任されてシナ事変前から上海で外信の検閲に従事していた人物である。
曾は『自伝』で、「国際宣伝処においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を探して代弁者になってもらわねばならない。金を使ってティンパーリ本人とティンパーリ経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いて貰い、印刷して発行する」計画を述べ、「二つの書物は売れ行きのよい書物となり、宣伝の目的を達した」(北村稔『「南京事件」の探究』、以下同じ)と書いている。
ティンパーリは豪州人で、ロイター、マンチェスター・ガーディアン、UPの駐北京記者を務め、盧溝橋事件後は国民党政府から欧米に派遣されて宣伝工作に従事。その後中央宣伝部顧問となり、『WHAT WAR MEANS』(中国文『日軍暴行紀実』、翻訳文『戦争とは何か』)を書く。
スマイスは日本軍が南京を占領した当時は金陵大学教授で、宣伝刊行物となる『南京戦禍写真』(『南京地区における戦争被害』で通称「スマイス報告」)を書く。
宣伝のやり方については「アメリカに重点を置いたが、英国と香港の持つ、宣伝上の通路としての役割にも留意した」と、効果的に世界に流布するように心がけている。